レゴから「守破離」を学んだ長男の体験について
どうもしんざきです。私自身レゴは大好きで、レゴでロボ作ったり家を作ったりよくやってたんですが、最近は長男長女次女、ほぼ全員にレゴ作りの腕前を追い抜かれました。子どもの歩みというものは本当に早いなーと思うばかりです。いや、私のレゴの腕前が、地面に接触しそうな程度に低空飛行だということもあるんですが。
今回は、「レゴを習うことで、長男のレゴに対するスタンスや発想はどう変わったのか?」ということを書きたいと思います。
長男は今年で小学6年生でして、主にプラレールと信長の野望DSに傾斜してはいるのですが、小3くらいからレゴスクールに通っています。元々レゴ好きだった長男が「通ってみたい!」と言い出したのがきっかけでして、今でも週一で楽しそうに通っているので、やらせてあげて良かったなーと思ってはいるんです。
実際の所、通わせる当初は、私も「レゴを習うって、それで何が身につくんだろうな?」と思ったんですよ。レゴなんてただの遊びなのに、「習う」必要なんてあんのかな?と。
職場の知人に、「レゴなんて自由にやらせるものでしょ?」「なんか習ったりしたら、却って子どもの発想が窮屈になったりしない?」と言われたこともありまして、実際そういうこともあるのかも知れない、と気にしたりもしていました。
ただ、長男がレゴ教室に通った三年を改めて振り返ってみると、それについては杞憂だったというか、私の認識がちょっと違ったなーと。
実際の所、「型」や「何が出来るのか」を知ることで、発想自体も遥かに広がるものなんだなー、と実感するようになったんです。
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前述した通り、長男はプラレール好きでして、プラレールとレゴを組み合わせてレイアウトを作るのが得意です。昔から、リビングの広範囲を長男のプラレールとレゴのレイアウトが覆うのはよくある話で、片づける片づけないで長男と対決することもしばしばあります。片付けだけはもうちょっとちゃんとやってくれるということないんですけど。
ただ、ある時から、長男のプラレールレイアウトに、言ってみれば「動き」が導入されるようになったんですね。
まず前提なんですが、私、そもそもレゴに「動的な組み方」って発想がそもそもなかったんですよ。子ども時代に何年も遊んでいて、「特に特殊ではない、普通のレゴのパーツだけでも、結構「動き」が再現できる」ということを知らなかったし、気付かなかった。4分の1だけ組み合わせて可動する部分を作るとか、半分だけはめておいてパーツを簡単に組み替えられるようにするとか、ああいうテクニックですよね。勿論、ギアやらマインドストームやら組み合わさるともっと凄いんですけど。
長男の場合、当初はただの「建物」だったんです。駅舎とか。線路の横の公園とか。道路とか。それだけだって全然いいと思うんですけどね。
それが、途中から、「動くもの」が加わっていった。勿論動くパーツを使えるようになったってだけの話じゃなくて、信号機とか、幾つかパーツを組み合わせて橋になったり線路になったりするヤツとか、階段を組み替えると通路になるヤツとか。いやこれが、プラレールの稼働パーツなんかと組み合わせて長男がくみ上げると、結構かっこいいレイアウトになるんですよ。
更に途中から、歯車パーツやらクレーンパーツやら組み合わさって、段々ジオラマ的なプラレールになっていったりしたんです。線路と電車と組み合わさって、当初は静的なレイアウトだったものが、段々動的なレイアウトに変わっていったんですね。
これ、多分、「発想の壁を乗り越えた」ってことだと思うんですよ。そもそも、「あ、こんなことも出来るんだ」っていう気付きがないと、静的なものから動的なものへの発想ってなかなかたどり着けないんですよね。車輪を既に知っていれば車輪のバリエーションはたくさん思いつくけれど、車輪を知らない状態から車輪を思いつく為には物凄い時間と努力が必要になる。文字通り発想の壁です。
で、長男の場合、レゴスクールで「こういうの習った!」っていうのをもって帰ってきて、それを自分のプラレールのレイアウトに導入するところから、どんどん横展開していくわけなんです。あ、こういう組み方でこういう動きが再現出来るなら、これも出来るな、これも出来るなっていうのがどんどん発想として湧いてくる。
これって、「習うことによって縛られるのではなく、より自由な発想が出来るようになる」ということの、生きた見本だと思うんです。
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守破離、という言葉がありまして、元々は武道だか茶道だかの言葉だったと思うんですが、要は何かを学ぶ時のプロセスを表した言葉なんです。
つまり、最初の段階では、「教えられた通りに出来るようになる、支援を受けて何かを出来るようになる」。「型を守る」という段階で、これが「守」。
次の段階では、「教えられたことを分析して、改善・改良が出来るようになる」。「型を破る」という段階で、これが「破」。
最後の段階では、「教えられたことに基づいて、新たな技術を作り上げることが出来る」。「型から離れる」という段階で、これが「離」。
「型が無ければ、型破りではなく形無し」という言葉もありますが、新しいものを作り上げる為には、まず既存の型を知らなくてはいけないんですよね。
これは、たとえレゴのような純然たる「遊び」であっても同じことだなあ、と。つまり、「何が出来るのか」という「型」を知ることで、自分の発想自体が広がるという訳で、発想が窮屈になるなんて心配は文字通り見当違いだったなあ、と。
元より、「自由な発想」とか「のびのび遊ぶ」って、口で言うだけなら簡単だしとてもいいことのように思えるけれど、案外そうお気楽な話でもないんです。全くゼロからの「自由」って、結構難しいんですよ。「楽しむ」為にもある程度の下敷き、ある程度の型というものは本来必要であって、ただ「子どもだから」というだけで、完全なゼロの状態を即楽しめる訳ではない。場合によっては、「自由に遊ぶ」というのが、単なる大人からの押しつけになってしまうことすらある。
で、「たかが遊び」であっても、実際にこの「守破離」を自分で経験できたことって、決して小さなことではないと思うんですよ。
レゴを学び始めた当初は、例えば想像力にいい影響がとか、手先が器用にとか、勿論そういう能力的なメリットについても伺いまして、実際そういう効果もあるのかもなーとは思うんです。
ただ、少なくともしんざき家、そしてしんざき長男に関しては、「実際に型を学んで、そこから新しいものを生み出すことが出来るようになった」というその経験こそが、レゴスクールで学んだもっとも大きなことなんじゃないかなあ、と。
つまり、今後の人生においてとても大事になる、「習って、型を守るところから、型を破って型から離れるところ」までを、レゴとプラレールという、自分の大好きな分野で体験することが出来た。
「型」の重要性を早い段階から理解出来ることによって、今後触れる色んな「型」や、一見地味な基礎練習にも、実は物凄い価値があるということを身をもって体感することが出来たわけです。
これ、多分今後の人生で滅茶苦茶大きな財産になるんじゃないかなー、と。
子どもの頃にした体験が非常に貴重であることは言うまでもありませんで、私にせよ、大人になった今でも「ああ、これ昔やったなー」って急にフラッシュバックすることがしばしばあります。なるべく生きた体験を子どもの頃にたくさんさせてあげたいと考えることはしきりでして、そんな中で「レゴ」というものを選んだ長男は、実はなかなか賢い選択をしたんじゃねえかと。
そんな風に考える訳なんです。
今日書きたいことはそれくらいです。